二人暮し
- 計画 若宮
- 2022年2月20日
- 読了時間: 3分
※今回は制作の下沖さんが自宅のベランダに生えた雑草について書いてくれました。(若宮)
冬らしい天気が続いている。3ヶ月くらい前からベランダで育てている(勝手に生えてきたけど、抜く気にもならないから育てていることにしている)雑草は雪が降りそうな気温の中でも、じっと耐えている。
「やまない雨はない」とか、それに近い励まし方をされると少しむっとしてしまう。励ましてくれる人がいることをありがたいと思う前に、そういうことじゃないという苛立ちが先行してしまう。そうじゃなくて、私は今ここにある苦しさをどうにかして欲しいんだ。
空から水が降ることを雨と呼んでいる。
私は日本に住んでいるからにわかには信じられないけど、雨がほとんど降らないところもあるらしい。日本語には雨の降り方を表現する擬音が多いと聞く。日本ではそれだけ雨が身近なものだったのだろう。そこにあることが当たり前で、向き合って細かく見つめた上で、ゆっくりと受け入れていったのだろう。昔の雨の降り方に名前をつけてきた人たちは自分の手ではどうにもならないこととそうやって折り合いをつけようとしたのだろうか。
そういえば雨が降ることを知ったのはいつだっただろう。もう雨が降らないところの暮らしは想像ができないところにいる。
どこかの砂漠では数十年に一度雨が降るとしばらくして一面が花畑になるらしい。砂ばかりで何もないと思っていた砂漠の下には、雨をずっと待っている種がたくさん埋まっている。辛抱強く雨を待ち、ようやく咲いた花はどんなにきれいだろう。どこにあるのか知らないけど、知らないままでもいい気がして、きれいだろうとは思うけど、見に行きたいとは不思議と思わない。きれいなものとの距離感はそれくらいがちょうどいい気もする。
私にはこわいことがある。街を歩いている人のひとりひとりに暮らしがあることだ。私が見ることのできる景色と、知ることのできる感情はその中の誰とも一生共有できない。それなのに同じ世界で生きている。そのことがこわいのだ。まわりの人間がいったい何を考えて暮らしているのか分からない。話しても話しても分かり合えないことが多い、理解できないことも多い。別に自分が特別繊細であると言いたいわけじゃない。というかそう思わないからこそ気がつかないうちに傷つけてしまいそうで、そんな人たちと同じ世界に生きていることがこわい。
それだけではない何かにおびえながら暮らしている私は、私しか変えることができないことを知り、その途方もなさに立ちすくんでしまう。
進むべきか進まないべきか迷ってなんかいると、世界と私との間を大きく隔たっている溝が判断を惑わせようとしてくる。隙あらば貶めようとしてくるその溝はどの向きからも越えられない。埋めることもできない。
砂漠では雨が降ると少しして花が咲く。待ち続けた雨の後、花を咲かせて、枯れていくその花のことを思う。晴れ晴れしているだろうか、次の種をつくるのに必死でそれどころではないだろうか。
一瞬の輝きだけで生活は終われない。その一瞬を待つだけのつらい時間も確かにある。その一瞬の後から来るつらい時間もある。
ベランダの雑草は相変わらずすくすくと育っている。明日もきっと私はこの雑草を抜かない。

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